岡本守生(NPO法人地域交流センター 森の駅椎進協議会 代表幹事)
日本は、古代から、神様のものである自然や、神様そのものである自然と共生する智恵を持っていました。自然は、公の中でも特別な存在で、当時の社会システム全体を管理する仕組みで、自然の利用も上手く行っていたようです。その時代は、じねんと呼んでいました。natureを自然と訳したことで、しぜんと呼ぶようになったそうです。
しかし、利便性や効率を追求する文明の名のもとに、自然の持つ経済的な資源を専ら私する人々が現れ、森や海を変えて行きました。そこで、自然の持つ資源について改めて考えてみますと、次のように思います。
生物的資源、観光的資源、経済的資源等があり、経済的資源に就いては公私があります。一方で、環境的な存在、健康的な存在、文化的な存在、宗教的な存在でもあります。ここでは、「自然は、皆のものであり、私のもの」なのです。森や海は、これらがバランス良くあることで、本来の自然らしさを保って来たように思えます。
環境問題が起こったのは、この中の「経済的資源」の「私的な」部分が強力になり、無制限に肥大化し、他の資源や、皆なのものの「各種の存在」を無視するかのごとくバランスを崩したからです。西洋では、人間を中心に凝らした、神様―人間―自然に近いヒエラルキーが、人間による自然支配を許して来ました。例えば、レバノン杉の歴史は、古代の文明の究極の姿です。
今日も、地球自然の明日や明後日のことを考えることなく、文明の為に、更に言えば、利益の為に、森や川・海の環境を壊し,都合良く利用されているのです。特に、地球の歴史から見れば一瞬でしかないこの一世紀の間に、野心と過度な経済的な活動で、新しい多くの化学的物質を生み出しましたが、殆どがその最終処分方法の提示もないままです。その結果、天地で多くの汚染を重ね、多くの生物資源を減少・死滅させました。更に、人間の衣食住にも不自然・非自然が及び、多くの人から健康を奪いました。
一方、日本では、神様―自然―人間、が根底にあります。神道は、宗教というよりは、自然と付合う際の、共生する智恵として、作法として、存在してきたように思います。過度にバランスを崩すと、山の神や海神のたたりとして自然からの戒めを受けました。こうした自然との共生についての智恵なり作法は、文化として、広く全ての自然に及びました。
人間中心の欧米の思想と異なって、人間も自然の一員であることを自覚していたのです。然し、この一世紀、欧米に倣って文明の虜になり、先進公害国になりました。残念です。
遠い温故知新ではなく、この半世紀強を振り返り、自然、文化に再び焦点を当て、自然の持つ力を再発見し、安心・安全な選択をする姿勢が今求められていると言えるでしょう。今こそ構想力豊なカルチャー・デザインやソーシャル・デザインの出番と期待しています。